2007年04月14日
Posted by 好奇心旺盛君
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川田 利明
川田 利明(かわだ としあき、1963年12月8日 - 栃木県下都賀郡出身)は、日本の男子プロレスラー。ハッスルを主戦場とする。183cm、105kg。血液型O型。選手としてはフリー(本人は「無所属」を自称。実質的窓口はDSE)、タレントとしては太田プロダクション所属。
「名勝負製造機」とも言われる試合展開の手腕と「デンジャラスK」とも称されたキック主体のハードなレスリングスタイルでファンから高い支持を得ている。
【経歴・戦歴】
[学生時代]
中学時代は野球、次いで相撲をしているが、卒業後はプロレスラーになるつもりであった。実際に新日本プロレスのテストにも合格していたが、高校ぐらいは行っておこうと思い直しレスリングの強豪である足利工業大学附属高等学校に推薦で合格する。
入学前、教科書等を買いに来た時にレスリング部の監督に挨拶に行った際、「お前プロレスラー志望なんだってな。あいつもそうなんだよ。」と指差した人間が将来永遠のライバルとなる一年生の三沢光晴であった。高校レスリングでの実績では三沢以上の活躍を果たし、1981年の茨城インターハイ準優勝、滋賀秋季国体優勝(階級はいずれも75キロ級)という輝かしい経歴を残した。また、インターハイで山田恵一(現:獣神サンダーライガー)との対戦経験もある。
高校卒業が迫る頃、どうしようかと悩んでいると、先にプロレスラーとして全日本プロレスに入団していた三沢光晴に「来るなら紹介するよ」ということで翌1982年3月に全日本プロレス入団を果たす。入寮の際、三沢部屋を覗いてみたところ、飲み慣れない酒を無理やり飲まされ「もどし」ながら潰れていた三沢を発見したそうである。寮での生活は「一言多い」という川田らしい理由から三沢によく可愛がられた(三沢は自伝のみならず、各雑誌のインタビューにおいて「川田は高校時代から一言多かったから殴ったよね。でもこれはいじめじゃなくてしつけですから」と語っている)。三沢に階段から蹴っ飛ばされ転げ落ちた後、それを心配に思った冬木弘道が三沢に問うたところ「あいつはいいんですよ」と答えたのは有名な話である。実際それでも川田は一言余計なことを言い続け、可愛がられながらもヘラヘラしていたという。その影響か、後に冬木も三沢と一緒にいるときは川田を「シメる」ようになったようである。三沢は自伝の中で「あれは俺がいけなかったかも」と反省のコメントを述べている。
苦しい練習を耐え抜いた川田は、同年10月4日、千葉・大原町消防署前グラウンド大会での対冬木弘道戦でデビューを果たした。
[若手時代]
若手時代は勝てない日々が続き、デビューから引き分けを挟んで205連敗を喫しながらも、必死で練習を繰り返していた。しかし一年だけの先輩であるはずの三沢はどんどんキャリアを積み重ね、海外修行を経て2代目タイガーマスクとして舞い戻ると、川田との差は決定的なものとなっていた。三沢は初代タイガーマスクのスタイルを身につけるために士道館でのキックの練習や、飛び技の練習を重ねることになるのだが、その練習相手として後輩の川田が選ばれ、三沢と同じ練習メニューをこなしていった。実は三沢よりも川田の方が蹴り技・飛び技共に飲み込みが早く、この頃は三沢=タイガーへの嫉妬からか試合では飛び技を中心に戦っていたという。
遂に自分も海外修行(将来を嘱望されている証拠)に行くことを命じられ、意気揚々と日本を旅立つ。しかし、各地を回って帰ってくれば、行く前と変わらず、アンダーカードに自分の名前が刻まれているだけであった。タイガーとして華々しく戦う三沢との差は海外に行っていた間に更に開いていたのである。この仕打ちに腐った時期もあったが、状況を打破すべく、天龍源一郎が鶴田を乗り越える為に掲げた「レボリューション」に半ば無理やり参加する。以降、天龍の象徴であった黒と黄色のスタイルを現在まで通している。それ以後、同軍団内のサムソン冬木とのタッグ「フットルース」でアジアタッグを長期間保持、また天龍とのコンビでも活躍した。
[選手大量離脱後]
しかし、天龍達は1990年のSWS旗揚げに伴う引き抜きで居なくなってしまう。川田も誘われていたが、そのまま全日本に残ることを決意した。大量離脱後の初の試合ではタイガーマスクとタッグを組んだが、彼の指示でそのマスクを外し、タイガーマスクから三沢光晴への「脱皮」を手伝う。この後、全日本を盛り上げていく為に、絶対的な存在であるジャンボ鶴田に食いついていくことを目的として、二人を中心にした超世代軍が結成される。三沢光晴と共に団体を背負っていこうとする意気は強く、このコンビで世界タッグ王者に就いた。このタッグ時代には、遠征先の食事等の際も三沢と常に行動しており、巷で言われているほど犬猿の仲というほどではなかったそうである。また、この大量離脱の後、タイツを黒と黄色のものに替えている。
その三沢とは、1992年の全日本プロレス旗揚げ記念大会で三冠タイトルをかけて対戦、節目の大会のメインを務めるという大役を果たした。それと前後して鶴田が病気により離脱、気付いて見れば川田は三沢に次ぐ日本人エースの地位に立っていた。既に対「ガイジン」から日本人対決に人気が傾いていたこの状況下では、トップ二人が組んでいても停滞するだけと考え、三沢との超世代軍タッグを解消する。これ以降、鶴田とのタッグで次第に実力を積み重ねていた田上明とコンビを組み、聖鬼軍と名乗り三沢や小橋達と熱戦を繰り広げていくことになる。その中でもこの二人のタッグの連携は群を抜いており、熟練のタッグワークで度々王座に就いている。しかし、シングルでの戦績からみれば、三沢の壁は絶対的と思われるほどに高く、三冠戦を行うたびに三沢に敗れ、常に二番手としての地位に甘んじていた。
(1994、1997チャンピオン・カーニバル優勝)
(第12代、18代、21代、28代、32代三冠ヘビー級王者)
1997年チャンピオンカーニバル決勝巴戦で、クジ運が良かったという要素があったものの(三沢は巴戦初戦の小橋戦で30分引き分けでスタミナ切れ寸前だった。)、シングルで初めて三沢を倒す。三沢を倒すまで入門から15年もの年数がかかったことになる。
1998年5月1日の全日本初の東京ドーム大会、三沢が持つ三冠ベルトの挑戦者、そしてメインという大役をジャイアント馬場に命じられた川田は、体重を減らし(当時は115kg)褐色ボディに変貌させて試合に臨み、遂に三沢から三冠ヘビー級選手権試合での初勝利を奪い取る。試合後、三沢を破ったリングの上で、「プロレス人生で一番幸せです。今が!」と大会の最後を締めくくった。
歓喜もつかの間、この三沢から奪った価値あるベルトは初防衛戦であっさりと小橋に奪われてしまう。加えて、これを前後する1990年代終盤から度々の負傷に見舞われ、特に1999年1月22日大阪府立体育会館の三沢との三冠戦では三沢を倒し川田時代の到来が予感されるも、試合中の怪我により防衛戦を行うことなく返上という目にあった。しかし、その度に完治する前に強行出場し、意地でリングに上がり続けていた。
前述の通り、三沢にはシングルで計3回勝利したが、1997年チャンピオンカーニバル決勝巴戦では、小橋と対戦直後のスタミナ切れ寸前の三沢との対戦。1998年東京ドーム大会の時では、チャンピオン・カーニバル後の満身創痍状態(主に右手薬指・左ヒザの怪我)の三沢だった事もあり、コンディション万全の三沢に勝利したのは、川田自身も負傷を負った1999年1月22日の三冠戦のみであった。
[ジャイアント馬場逝去~選手大量離脱]
1999年1月31日に、全日本の象徴であるジャイアント馬場が逝去する。三沢光晴が代表取締役社長に就任すると同時に、川田も副社長に就任した。しかし、2000年に今度は三沢を中心とした選手大量離脱が発生する。殆どの所属選手・フロント陣が辞表を提出し、結局選手として残ったのは川田と渕正信、そして太陽ケア(当時はマウナケア・モスマン)の3人だけであった。この際川田は「(離脱するという話を三沢や田上から)聞いていない。」と語り、「全日本の看板を捨て切れなかった。」と残留の理由を語っている。良くも悪くも川田の人柄がうかがえる台詞ではある。
実はこの大量離脱のきっかけとなった事件、「三沢光晴代表取締役社長辞任」の数日後に川田一人だけ全日本との契約を更改している。この当時の全日本では一試合幾らの計算で給料が支払われる上、怪我・入院・休場等に関する保障が一切無かった。また、一般の生命保険にもその職業柄加入することが出来ず、休場即ち無給の日々が始まるという状況であった。加えて給与そのものも、全日トップの三沢と新日トップの武藤とでは3倍の違いがあると言われていた。全日本の選手が怪我をしても無理してまでリングに上がっていた理由の一部はここにあり、三沢が改革を実施しようとしていた最重要部分でもあった。兎にも角にも当時の川田は、休場中の治療費等で会社に大量の借金を背負っていたと言われ、ポケットマネーを治療費として出してくれる馬場の逝去後は、金銭的にも困ることが多かったらしい。会社への借金があるために皆が渋っていた契約を更改せざるを得ず、結果離脱できなかったとも囁かれている。そのほかにも欠場中にも川田にだけギャラが支払われていたために残留したという話もあるが真相は定かではない。また、「一選手としてやっていきたい」という理由から副社長を辞任している。
[全日本残留後]
所属選手たった三名で、客を呼べる選手は川田だけになってしまった全日本は崩壊の危機を迎える。この危機に日本プロレス分裂以後、興行仇として袂を分かっていたにも関わらず馬場が「猪木は駄目だがあいつは信じられる」と高く評価していた新日本の坂口征二会長(当時)は迅速に動き、全日本の救済を指示する。あれほどまでに両団体の間には強固な壁が存在していたにもかかわらず、全日本の崩壊危機の前に一瞬にして崩れ去り、渕が7月の新日本の両国国技館大会のリングに突如乱入し「壁を壊しに来ました」と表明、蝶野正洋が突如全日本のリングに表れる等、一昔前までは信じられなかった全日本と新日本の対抗戦が始まった。
この流れで2000年10月9日、新日本プロレス東京ドーム大会でIWGP王者佐々木健介と川田利明の対戦が決定する。まさしく馬場と猪木の代理戦争であり、プロレス界の頂上決戦の前にその熱狂は留まることを知らなかった。馬場元子未亡人から贈られたガウンを羽織い川田は東京ドームに乗り込み、戦前の熱狂に負けぬ白熱の名勝負を展開し勝利した。全日本と新日本の頂上決戦に敗れた佐々木健介はIWGP王座を返上、次代の王者決定トーナメントに佐々木を破った男として川田は参戦するも、決勝戦で再び対戦した佐々木健介に敗れてしまった。結果、2000年の全日本と新日本の頂上決戦は1勝1敗の痛み分けに終わる。また、裏切りは決して許さない馬場の意向で、一度退団した選手は決してリングに上げぬ方針を全日本はとっていたが、背に腹は変えられなかったためか「手助けをしたい」という言葉もあって天龍が参戦、再入団が決定する。この直後に川田は天龍とタッグを組むことになったのだが、「何故この段階でタッグを組まなければならないのか。」と、戦うべき相手が隣に居ることに憤っていたという。
新日本との交流と選手派遣、天龍源一郎、そして馬場と全日本を愛していた「ガイジン」の援助で何とか生き延びていた全日本の中で、川田は新日本のリングにも上がり、天山広吉や小島聡を完膚なきまでに叩きのめす等、団体のエースとして孤軍奮闘の働きをする。次第に武藤敬司が太陽ケアとのタッグで全日本に上がる機会が多くなり、川田と戦うことも多くなっていた。そして、2002年2月24日の日本武道館にて、当時六冠王(三冠の3本、世界タッグの2本、IWGPタッグの1本で合計六冠。しかし、IWGPタッグは新日本離脱直後の全日本入団に際し返上している。)のプロレス界の栄光を一身に浴びていた武藤敬司と初の三冠選手権試合を行う。武藤を相手に全日本ライクな激しい試合を展開し、これに勝利した。試合後、武藤を破ったリングの上で、「これも、全日本プロレスです。」と大会の最後を締めくくった。相手は違えども「天才」と称される人間を撃破したこと、そして今後の全日本プロレスの形を明確に示せたことへの自信がその言葉に含まれていたのかもしれない。しかし、その先も過去の流れと同じように、防衛戦を行う前に右肘の負傷が悪化し、長期離脱に追い込まれてしまった。
2003年の復帰後からは、全日本だけでなくZERO-ONEのリングにも精力的に上がりだし、ここで「暴走王」小川直也、そして三銃士の一人であった橋本真也との一騎打ちも実現した。
2004年からはその流れでハッスルに参戦。当初は無骨な表情で全日本と変わらずハードな試合を展開しているだけであったが、「キャプテン・ハッスル」の小川直也にブルース・リーが身に着けていたことで有名な黄色いジャンプスーツをリング上で受け取って以来、次の大会からは本当にジャンプスーツを身に着けて「ハッスルK」として試合を行うようになった。元々お笑い好きで喋り好きなこともあってか、高田総統との舌戦やインリン様との遺恨対決、付け人の石狩太一との「控室劇場」などに即座に対応、新境地を開いている。
2005年2月16日小島との三冠戦で11度目の防衛に失敗。これにより約16年間続けてきた平成デビューの日本人選手相手のシングル無敗記録が途絶える。ここまで無敗記録を続けてきたが、小島に敗れたあと、ケンドー・カシン、藤田和之にも敗れ、1年間で3人もの平成デビューの日本人選手に敗れる(小川直也にもピンフォールを奪われるが、この時は試合内容を判定材料にする特別ルールが適用され川田の勝ちなので除く。)。
[無所属宣言]
2005年3月、無所属(川田は「フリー」という言葉は好きではないとしてこう称する。)選手である事を宣言した。その際、ジャイアント馬場の死後6年間に渡って、正式な専属選手契約を交わさないまま、即ちフリーの立場で全日本プロレスに出場していた事実を明らかにし、「他団体主催の興行に出場した時、それが全日本の興行がぶつかると、ファンやプロモーターから『全日本所属なのになぜ?』と苦情を言われてきた。この誤解を解きたい。」と理由を述べている。なお、石狩も「川田さんの付け人を全うしたい。」として、全日本プロレスを退団しているが、両者とも引き続き全日本プロレスにレギュラー出場する旨を表明した。だが2005年7月以降約1年間全日マットに上がる事はなかった。なお、これに先立ち、2003年に太田プロダクションとタレント契約を交わしており、マット界の窓口業務的な役割はドリームステージエンターテインメントが担っている。
[三沢との5年ぶりの戦い]
2005年7月18日、プロレスリング・ノアの東京ドーム大会で5年4か月振りに三沢光晴と対戦(三沢は「今しか出来ないなら」、川田は「お客さんが一番望むものを提供するのがプロ」、「忘れ物を取りにいく」)。超危険技をお互いに出し合った末、三沢がエルボーで勝利。試合後のマイクで「三沢さん、あえて握手はしません。ずるい話かもしれないけど、今日打つはずだった終止符が打てなくなりました。三沢光晴はいつまでも、オレの1つ上の先輩の力を持っていてください。」と語りかけた。これに対してノアの仲田龍専務はこの試合後の川田のマイクが原因で三沢と共に呆れてしまい、「ノアマットへの継続参戦は不可能になった。」とコメント(2006年1月サムライTVにて)。プロレス格闘技DXである読者が、この件について仲田へメッセージを投稿したところ、川田をノアのマットに二度と上げないと断言した。又、川田はこの試合後、控え室での敗戦インタビューで「5年間やってきた事がこの一試合で台無しとなった。」とコメントした。
[ハッスルKからモンスターKへ]
三沢戦の3日前には大阪府立体育会館での「ハッスル11」で、タッグマッチながらインリン様と戦い、両極端の方向性を持つ2つの試合を無理なくこなす幅の広さを見せた。しかし、後にプロレス誌「紙のプロレス」に掲載されたインタビューによると、一つのことにしか集中できない性格のため、インリン様との試合が終わるまで三沢戦に集中できなかったと告白している。8月には新日本プロレスの夏の祭典G1に初参加し、蝶野正洋とシングルで対戦。いわゆる四天王・三銃士全てとのシングル対戦を達成する。蝶野を倒せば三銃士からすべてシングル勝利達成だったが敗れる。藤波辰爾との初対決も実現し勝利する。試合後藤波と握手し「試合後の握手は嫌いだが、レスラーになったきっかけの一人であるから。」とコメントを残す。その他このG1では全日時代にシングル戦が実現しなかったカシンにも敗れ、そして準決勝では藤田に敗れる。
「ハッスル12」で、ハッスル軍を裏切り高田モンスター軍に寝返って、以降は「モンスターK」を名乗る。「ハッスルマニア2005」では、インリン様らとタッグを結成し、人気芸人のHGとも対戦。11月23日には、「U-STYLE Axis」の旗揚げ戦でイリューヒン・ミーシャを相手に、1999年の高山戦以来6年ぶりのUWFスタイルで対戦した。一方で、ルチャスタイルのdragondoorにも参戦している。
2006年4月の「ハッスル16」での5対5勝ち抜き戦では、大谷晋二郎を下した後、WWEでトップレスラーの一人でもあったTAJIRIと初遭遇。相手の策力に嵌まり、両者リングアウトとなる。3日後の「ハッスル・ハウスVol.13」では、TAJIRIに向かい「お前と決着つけてやるよ!」と迫るも、TAJIRIは「そういう知性のカケラも感じないような言葉、大嫌いなんですよ。体が痛くて、しばらくあなたとはやりたくありません。」とすかされ、セリフ自体はハッスルのアングルに沿ったものでありながらも、両者のプロレス観の違いをよく表したシーンとして、観衆の拍手を浴びた。また、高田総統のコスチュームを着用し、イベントで「川田総統代理」として登場した。その姿をTAJIRIからは「がきデカみたい」と言われた。
「1クールのレギュラーより1回の伝説」を旗印に「伝説を作りにきた」と参戦したハッスル軍のファイナルウェポン江頭2:50に対抗して、黒タイツで「川田19:55」として参戦して江頭に一言物申して会場の大声援を受けた。「ここのリングは 大の大人が なんでも どんなことでも 真剣に取り組むリングなんだ。」とプロとしての名言を吐いた(19:55とは登場した際に後楽園ホール壁にある時計を見たからと思われる。)。江頭が「俺が言うのもなんだけど、あんた頭おかしすぎる。」「あいつ一人勝ちじゃねーか。」「あんな強敵がいるとは思わなかった。」「伝説作りに来たのにあいつに伝説つくられちゃったよ。」と「芸人最終兵器」が自らの完敗を認めた「超レア芸人」となった。
[一年ぶりの全日本]
小島から三冠を取った太陽ケアから初防衛相手に指名され、川田は承諾し、1年ぶりに全日本マットに参戦。2006年8月27日東京・両国国技館で太陽ケアの三冠に挑戦するも、1年ぶりの全日本マットで勘が鈍っていたのか太陽ケアに初めて敗れた。
世界最強タッグ決定リーグ戦2006に武藤敬司とのタッグで出場。初戦ではテンコジを敗るが、決勝進出決定戦ではリベンジされる。
2007年1月4日の新日本プロレス・全日本プロレス創立35周年記念東京ドームでは、川田曰く「全日本プロレスの一員として参加」し、中邑真輔と初シングル戦を行い勝利。この大会のベストバウトと称えられ、「名勝負製造機」ぶりを遺憾なく発揮した。
2007年2月17日両国での世界タッグ王座決定戦では太陽ケアと組み、諏訪魔、ロージー組を破りベルトを獲得した。意外だが2000年の大分裂後、川田が世界タッグを取ったのは初めてである。
3月にはチャンピオンカーニバルに出場。決勝まで行ったが武藤に破れ、惜しくも10年ぶりの制覇とはいかなかった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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「名勝負製造機」とも言われる試合展開の手腕と「デンジャラスK」とも称されたキック主体のハードなレスリングスタイルでファンから高い支持を得ている。
【経歴・戦歴】
[学生時代]
中学時代は野球、次いで相撲をしているが、卒業後はプロレスラーになるつもりであった。実際に新日本プロレスのテストにも合格していたが、高校ぐらいは行っておこうと思い直しレスリングの強豪である足利工業大学附属高等学校に推薦で合格する。
入学前、教科書等を買いに来た時にレスリング部の監督に挨拶に行った際、「お前プロレスラー志望なんだってな。あいつもそうなんだよ。」と指差した人間が将来永遠のライバルとなる一年生の三沢光晴であった。高校レスリングでの実績では三沢以上の活躍を果たし、1981年の茨城インターハイ準優勝、滋賀秋季国体優勝(階級はいずれも75キロ級)という輝かしい経歴を残した。また、インターハイで山田恵一(現:獣神サンダーライガー)との対戦経験もある。
高校卒業が迫る頃、どうしようかと悩んでいると、先にプロレスラーとして全日本プロレスに入団していた三沢光晴に「来るなら紹介するよ」ということで翌1982年3月に全日本プロレス入団を果たす。入寮の際、三沢部屋を覗いてみたところ、飲み慣れない酒を無理やり飲まされ「もどし」ながら潰れていた三沢を発見したそうである。寮での生活は「一言多い」という川田らしい理由から三沢によく可愛がられた(三沢は自伝のみならず、各雑誌のインタビューにおいて「川田は高校時代から一言多かったから殴ったよね。でもこれはいじめじゃなくてしつけですから」と語っている)。三沢に階段から蹴っ飛ばされ転げ落ちた後、それを心配に思った冬木弘道が三沢に問うたところ「あいつはいいんですよ」と答えたのは有名な話である。実際それでも川田は一言余計なことを言い続け、可愛がられながらもヘラヘラしていたという。その影響か、後に冬木も三沢と一緒にいるときは川田を「シメる」ようになったようである。三沢は自伝の中で「あれは俺がいけなかったかも」と反省のコメントを述べている。
苦しい練習を耐え抜いた川田は、同年10月4日、千葉・大原町消防署前グラウンド大会での対冬木弘道戦でデビューを果たした。
[若手時代]
若手時代は勝てない日々が続き、デビューから引き分けを挟んで205連敗を喫しながらも、必死で練習を繰り返していた。しかし一年だけの先輩であるはずの三沢はどんどんキャリアを積み重ね、海外修行を経て2代目タイガーマスクとして舞い戻ると、川田との差は決定的なものとなっていた。三沢は初代タイガーマスクのスタイルを身につけるために士道館でのキックの練習や、飛び技の練習を重ねることになるのだが、その練習相手として後輩の川田が選ばれ、三沢と同じ練習メニューをこなしていった。実は三沢よりも川田の方が蹴り技・飛び技共に飲み込みが早く、この頃は三沢=タイガーへの嫉妬からか試合では飛び技を中心に戦っていたという。
遂に自分も海外修行(将来を嘱望されている証拠)に行くことを命じられ、意気揚々と日本を旅立つ。しかし、各地を回って帰ってくれば、行く前と変わらず、アンダーカードに自分の名前が刻まれているだけであった。タイガーとして華々しく戦う三沢との差は海外に行っていた間に更に開いていたのである。この仕打ちに腐った時期もあったが、状況を打破すべく、天龍源一郎が鶴田を乗り越える為に掲げた「レボリューション」に半ば無理やり参加する。以降、天龍の象徴であった黒と黄色のスタイルを現在まで通している。それ以後、同軍団内のサムソン冬木とのタッグ「フットルース」でアジアタッグを長期間保持、また天龍とのコンビでも活躍した。
[選手大量離脱後]
しかし、天龍達は1990年のSWS旗揚げに伴う引き抜きで居なくなってしまう。川田も誘われていたが、そのまま全日本に残ることを決意した。大量離脱後の初の試合ではタイガーマスクとタッグを組んだが、彼の指示でそのマスクを外し、タイガーマスクから三沢光晴への「脱皮」を手伝う。この後、全日本を盛り上げていく為に、絶対的な存在であるジャンボ鶴田に食いついていくことを目的として、二人を中心にした超世代軍が結成される。三沢光晴と共に団体を背負っていこうとする意気は強く、このコンビで世界タッグ王者に就いた。このタッグ時代には、遠征先の食事等の際も三沢と常に行動しており、巷で言われているほど犬猿の仲というほどではなかったそうである。また、この大量離脱の後、タイツを黒と黄色のものに替えている。
その三沢とは、1992年の全日本プロレス旗揚げ記念大会で三冠タイトルをかけて対戦、節目の大会のメインを務めるという大役を果たした。それと前後して鶴田が病気により離脱、気付いて見れば川田は三沢に次ぐ日本人エースの地位に立っていた。既に対「ガイジン」から日本人対決に人気が傾いていたこの状況下では、トップ二人が組んでいても停滞するだけと考え、三沢との超世代軍タッグを解消する。これ以降、鶴田とのタッグで次第に実力を積み重ねていた田上明とコンビを組み、聖鬼軍と名乗り三沢や小橋達と熱戦を繰り広げていくことになる。その中でもこの二人のタッグの連携は群を抜いており、熟練のタッグワークで度々王座に就いている。しかし、シングルでの戦績からみれば、三沢の壁は絶対的と思われるほどに高く、三冠戦を行うたびに三沢に敗れ、常に二番手としての地位に甘んじていた。
(1994、1997チャンピオン・カーニバル優勝)
(第12代、18代、21代、28代、32代三冠ヘビー級王者)
1997年チャンピオンカーニバル決勝巴戦で、クジ運が良かったという要素があったものの(三沢は巴戦初戦の小橋戦で30分引き分けでスタミナ切れ寸前だった。)、シングルで初めて三沢を倒す。三沢を倒すまで入門から15年もの年数がかかったことになる。
1998年5月1日の全日本初の東京ドーム大会、三沢が持つ三冠ベルトの挑戦者、そしてメインという大役をジャイアント馬場に命じられた川田は、体重を減らし(当時は115kg)褐色ボディに変貌させて試合に臨み、遂に三沢から三冠ヘビー級選手権試合での初勝利を奪い取る。試合後、三沢を破ったリングの上で、「プロレス人生で一番幸せです。今が!」と大会の最後を締めくくった。
歓喜もつかの間、この三沢から奪った価値あるベルトは初防衛戦であっさりと小橋に奪われてしまう。加えて、これを前後する1990年代終盤から度々の負傷に見舞われ、特に1999年1月22日大阪府立体育会館の三沢との三冠戦では三沢を倒し川田時代の到来が予感されるも、試合中の怪我により防衛戦を行うことなく返上という目にあった。しかし、その度に完治する前に強行出場し、意地でリングに上がり続けていた。
前述の通り、三沢にはシングルで計3回勝利したが、1997年チャンピオンカーニバル決勝巴戦では、小橋と対戦直後のスタミナ切れ寸前の三沢との対戦。1998年東京ドーム大会の時では、チャンピオン・カーニバル後の満身創痍状態(主に右手薬指・左ヒザの怪我)の三沢だった事もあり、コンディション万全の三沢に勝利したのは、川田自身も負傷を負った1999年1月22日の三冠戦のみであった。
[ジャイアント馬場逝去~選手大量離脱]
1999年1月31日に、全日本の象徴であるジャイアント馬場が逝去する。三沢光晴が代表取締役社長に就任すると同時に、川田も副社長に就任した。しかし、2000年に今度は三沢を中心とした選手大量離脱が発生する。殆どの所属選手・フロント陣が辞表を提出し、結局選手として残ったのは川田と渕正信、そして太陽ケア(当時はマウナケア・モスマン)の3人だけであった。この際川田は「(離脱するという話を三沢や田上から)聞いていない。」と語り、「全日本の看板を捨て切れなかった。」と残留の理由を語っている。良くも悪くも川田の人柄がうかがえる台詞ではある。
実はこの大量離脱のきっかけとなった事件、「三沢光晴代表取締役社長辞任」の数日後に川田一人だけ全日本との契約を更改している。この当時の全日本では一試合幾らの計算で給料が支払われる上、怪我・入院・休場等に関する保障が一切無かった。また、一般の生命保険にもその職業柄加入することが出来ず、休場即ち無給の日々が始まるという状況であった。加えて給与そのものも、全日トップの三沢と新日トップの武藤とでは3倍の違いがあると言われていた。全日本の選手が怪我をしても無理してまでリングに上がっていた理由の一部はここにあり、三沢が改革を実施しようとしていた最重要部分でもあった。兎にも角にも当時の川田は、休場中の治療費等で会社に大量の借金を背負っていたと言われ、ポケットマネーを治療費として出してくれる馬場の逝去後は、金銭的にも困ることが多かったらしい。会社への借金があるために皆が渋っていた契約を更改せざるを得ず、結果離脱できなかったとも囁かれている。そのほかにも欠場中にも川田にだけギャラが支払われていたために残留したという話もあるが真相は定かではない。また、「一選手としてやっていきたい」という理由から副社長を辞任している。
[全日本残留後]
所属選手たった三名で、客を呼べる選手は川田だけになってしまった全日本は崩壊の危機を迎える。この危機に日本プロレス分裂以後、興行仇として袂を分かっていたにも関わらず馬場が「猪木は駄目だがあいつは信じられる」と高く評価していた新日本の坂口征二会長(当時)は迅速に動き、全日本の救済を指示する。あれほどまでに両団体の間には強固な壁が存在していたにもかかわらず、全日本の崩壊危機の前に一瞬にして崩れ去り、渕が7月の新日本の両国国技館大会のリングに突如乱入し「壁を壊しに来ました」と表明、蝶野正洋が突如全日本のリングに表れる等、一昔前までは信じられなかった全日本と新日本の対抗戦が始まった。
この流れで2000年10月9日、新日本プロレス東京ドーム大会でIWGP王者佐々木健介と川田利明の対戦が決定する。まさしく馬場と猪木の代理戦争であり、プロレス界の頂上決戦の前にその熱狂は留まることを知らなかった。馬場元子未亡人から贈られたガウンを羽織い川田は東京ドームに乗り込み、戦前の熱狂に負けぬ白熱の名勝負を展開し勝利した。全日本と新日本の頂上決戦に敗れた佐々木健介はIWGP王座を返上、次代の王者決定トーナメントに佐々木を破った男として川田は参戦するも、決勝戦で再び対戦した佐々木健介に敗れてしまった。結果、2000年の全日本と新日本の頂上決戦は1勝1敗の痛み分けに終わる。また、裏切りは決して許さない馬場の意向で、一度退団した選手は決してリングに上げぬ方針を全日本はとっていたが、背に腹は変えられなかったためか「手助けをしたい」という言葉もあって天龍が参戦、再入団が決定する。この直後に川田は天龍とタッグを組むことになったのだが、「何故この段階でタッグを組まなければならないのか。」と、戦うべき相手が隣に居ることに憤っていたという。
新日本との交流と選手派遣、天龍源一郎、そして馬場と全日本を愛していた「ガイジン」の援助で何とか生き延びていた全日本の中で、川田は新日本のリングにも上がり、天山広吉や小島聡を完膚なきまでに叩きのめす等、団体のエースとして孤軍奮闘の働きをする。次第に武藤敬司が太陽ケアとのタッグで全日本に上がる機会が多くなり、川田と戦うことも多くなっていた。そして、2002年2月24日の日本武道館にて、当時六冠王(三冠の3本、世界タッグの2本、IWGPタッグの1本で合計六冠。しかし、IWGPタッグは新日本離脱直後の全日本入団に際し返上している。)のプロレス界の栄光を一身に浴びていた武藤敬司と初の三冠選手権試合を行う。武藤を相手に全日本ライクな激しい試合を展開し、これに勝利した。試合後、武藤を破ったリングの上で、「これも、全日本プロレスです。」と大会の最後を締めくくった。相手は違えども「天才」と称される人間を撃破したこと、そして今後の全日本プロレスの形を明確に示せたことへの自信がその言葉に含まれていたのかもしれない。しかし、その先も過去の流れと同じように、防衛戦を行う前に右肘の負傷が悪化し、長期離脱に追い込まれてしまった。
2003年の復帰後からは、全日本だけでなくZERO-ONEのリングにも精力的に上がりだし、ここで「暴走王」小川直也、そして三銃士の一人であった橋本真也との一騎打ちも実現した。
2004年からはその流れでハッスルに参戦。当初は無骨な表情で全日本と変わらずハードな試合を展開しているだけであったが、「キャプテン・ハッスル」の小川直也にブルース・リーが身に着けていたことで有名な黄色いジャンプスーツをリング上で受け取って以来、次の大会からは本当にジャンプスーツを身に着けて「ハッスルK」として試合を行うようになった。元々お笑い好きで喋り好きなこともあってか、高田総統との舌戦やインリン様との遺恨対決、付け人の石狩太一との「控室劇場」などに即座に対応、新境地を開いている。
2005年2月16日小島との三冠戦で11度目の防衛に失敗。これにより約16年間続けてきた平成デビューの日本人選手相手のシングル無敗記録が途絶える。ここまで無敗記録を続けてきたが、小島に敗れたあと、ケンドー・カシン、藤田和之にも敗れ、1年間で3人もの平成デビューの日本人選手に敗れる(小川直也にもピンフォールを奪われるが、この時は試合内容を判定材料にする特別ルールが適用され川田の勝ちなので除く。)。
[無所属宣言]
2005年3月、無所属(川田は「フリー」という言葉は好きではないとしてこう称する。)選手である事を宣言した。その際、ジャイアント馬場の死後6年間に渡って、正式な専属選手契約を交わさないまま、即ちフリーの立場で全日本プロレスに出場していた事実を明らかにし、「他団体主催の興行に出場した時、それが全日本の興行がぶつかると、ファンやプロモーターから『全日本所属なのになぜ?』と苦情を言われてきた。この誤解を解きたい。」と理由を述べている。なお、石狩も「川田さんの付け人を全うしたい。」として、全日本プロレスを退団しているが、両者とも引き続き全日本プロレスにレギュラー出場する旨を表明した。だが2005年7月以降約1年間全日マットに上がる事はなかった。なお、これに先立ち、2003年に太田プロダクションとタレント契約を交わしており、マット界の窓口業務的な役割はドリームステージエンターテインメントが担っている。
[三沢との5年ぶりの戦い]
2005年7月18日、プロレスリング・ノアの東京ドーム大会で5年4か月振りに三沢光晴と対戦(三沢は「今しか出来ないなら」、川田は「お客さんが一番望むものを提供するのがプロ」、「忘れ物を取りにいく」)。超危険技をお互いに出し合った末、三沢がエルボーで勝利。試合後のマイクで「三沢さん、あえて握手はしません。ずるい話かもしれないけど、今日打つはずだった終止符が打てなくなりました。三沢光晴はいつまでも、オレの1つ上の先輩の力を持っていてください。」と語りかけた。これに対してノアの仲田龍専務はこの試合後の川田のマイクが原因で三沢と共に呆れてしまい、「ノアマットへの継続参戦は不可能になった。」とコメント(2006年1月サムライTVにて)。プロレス格闘技DXである読者が、この件について仲田へメッセージを投稿したところ、川田をノアのマットに二度と上げないと断言した。又、川田はこの試合後、控え室での敗戦インタビューで「5年間やってきた事がこの一試合で台無しとなった。」とコメントした。
[ハッスルKからモンスターKへ]
三沢戦の3日前には大阪府立体育会館での「ハッスル11」で、タッグマッチながらインリン様と戦い、両極端の方向性を持つ2つの試合を無理なくこなす幅の広さを見せた。しかし、後にプロレス誌「紙のプロレス」に掲載されたインタビューによると、一つのことにしか集中できない性格のため、インリン様との試合が終わるまで三沢戦に集中できなかったと告白している。8月には新日本プロレスの夏の祭典G1に初参加し、蝶野正洋とシングルで対戦。いわゆる四天王・三銃士全てとのシングル対戦を達成する。蝶野を倒せば三銃士からすべてシングル勝利達成だったが敗れる。藤波辰爾との初対決も実現し勝利する。試合後藤波と握手し「試合後の握手は嫌いだが、レスラーになったきっかけの一人であるから。」とコメントを残す。その他このG1では全日時代にシングル戦が実現しなかったカシンにも敗れ、そして準決勝では藤田に敗れる。
「ハッスル12」で、ハッスル軍を裏切り高田モンスター軍に寝返って、以降は「モンスターK」を名乗る。「ハッスルマニア2005」では、インリン様らとタッグを結成し、人気芸人のHGとも対戦。11月23日には、「U-STYLE Axis」の旗揚げ戦でイリューヒン・ミーシャを相手に、1999年の高山戦以来6年ぶりのUWFスタイルで対戦した。一方で、ルチャスタイルのdragondoorにも参戦している。
2006年4月の「ハッスル16」での5対5勝ち抜き戦では、大谷晋二郎を下した後、WWEでトップレスラーの一人でもあったTAJIRIと初遭遇。相手の策力に嵌まり、両者リングアウトとなる。3日後の「ハッスル・ハウスVol.13」では、TAJIRIに向かい「お前と決着つけてやるよ!」と迫るも、TAJIRIは「そういう知性のカケラも感じないような言葉、大嫌いなんですよ。体が痛くて、しばらくあなたとはやりたくありません。」とすかされ、セリフ自体はハッスルのアングルに沿ったものでありながらも、両者のプロレス観の違いをよく表したシーンとして、観衆の拍手を浴びた。また、高田総統のコスチュームを着用し、イベントで「川田総統代理」として登場した。その姿をTAJIRIからは「がきデカみたい」と言われた。
「1クールのレギュラーより1回の伝説」を旗印に「伝説を作りにきた」と参戦したハッスル軍のファイナルウェポン江頭2:50に対抗して、黒タイツで「川田19:55」として参戦して江頭に一言物申して会場の大声援を受けた。「ここのリングは 大の大人が なんでも どんなことでも 真剣に取り組むリングなんだ。」とプロとしての名言を吐いた(19:55とは登場した際に後楽園ホール壁にある時計を見たからと思われる。)。江頭が「俺が言うのもなんだけど、あんた頭おかしすぎる。」「あいつ一人勝ちじゃねーか。」「あんな強敵がいるとは思わなかった。」「伝説作りに来たのにあいつに伝説つくられちゃったよ。」と「芸人最終兵器」が自らの完敗を認めた「超レア芸人」となった。
[一年ぶりの全日本]
小島から三冠を取った太陽ケアから初防衛相手に指名され、川田は承諾し、1年ぶりに全日本マットに参戦。2006年8月27日東京・両国国技館で太陽ケアの三冠に挑戦するも、1年ぶりの全日本マットで勘が鈍っていたのか太陽ケアに初めて敗れた。
世界最強タッグ決定リーグ戦2006に武藤敬司とのタッグで出場。初戦ではテンコジを敗るが、決勝進出決定戦ではリベンジされる。
2007年1月4日の新日本プロレス・全日本プロレス創立35周年記念東京ドームでは、川田曰く「全日本プロレスの一員として参加」し、中邑真輔と初シングル戦を行い勝利。この大会のベストバウトと称えられ、「名勝負製造機」ぶりを遺憾なく発揮した。
2007年2月17日両国での世界タッグ王座決定戦では太陽ケアと組み、諏訪魔、ロージー組を破りベルトを獲得した。意外だが2000年の大分裂後、川田が世界タッグを取ったのは初めてである。
3月にはチャンピオンカーニバルに出場。決勝まで行ったが武藤に破れ、惜しくも10年ぶりの制覇とはいかなかった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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